真面目だった医師が断れなかったのは

daily life for ASD

今日はインクルーシブ教育とお世話係の話です。

断れなかった先生のお願い

保育園児の頃から体格が良く、従順で、先生に言われたことをきちんとこなしていた私。小学校に上がると、学級委員などを任されることが多かったです。

 あれは私が5年生の時のこと。1年生のクラスにAくんという男の子がいました。Aくんはとにかく学校に行きたくないらしく、隙あらば脱走を試みていました。

 それを見かねたAくんの担任の先生とAくんのお母さんが、Aくんと集団登校班が同じだった私にこう言うのです。

 「ちっちくん、Aくんを学校まで連れてきてちょうだいね」

 まじめな私に「断る」「嫌だな」という発想はありません。その日から、Aくんを頑張って学校に連れていく毎日が始まりました。

 嫌がるAくんはとにかく大声を上げて逃げます。それをなんとか捕まえて抱えて、門まで連れていき、ヘトヘトになりながらAくんを担任の先生に引き渡します。Aくんも私も汗だくです。Aくんにひっかかれたり殴られたり蹴られたりで、本当に嫌でした。

 「なんでぼくがこんなことしなくちゃいけないんだろう……」

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 このような日々が1ヶ月続きました。私まで毎日遅刻する始末です。

 そしてある日突然、Aくんの担任の先生にこう言われました。
 「ちっちくん、もういいよ。この子を君に連れてきてもらうのは無理があったね。ありがとう」

 こうしてAくんのお世話係は終了しました。心の底からほっとしたことを覚えています。その後、Aくんはお母さんと一緒に登校していたようでしたが、気がつくといつの間にか転校してしまっていました。

雑巾を食べる子ども、うろたえる私

当時の私は、支援級の生徒のお世話も任されていました。先生が学級委員である私に「ちっちくん、ひまわり学級(支援級)のBくんと一緒に廊下の掃除をお願いね」と言うのです。

 Bくんと一緒に廊下へと向かう私。気がつくと先生はどこかに行ってしまっており、残されたのは私とBくんの2人だけでした。

 「じゃあ、お掃除を始めようか」と言いながらふと横を見ると……

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 なんとBくんは、雑巾を口に押し込んで食べていたのです。

 驚いて「ねぇBくん、それ雑巾だよ。食べない方がいいよ。汚いよ」と言ってみたものの、Bくんは聞いているのかいないのか、返事をしません。どうしたらいいのか分からなかった私は、Bくんを放って一人で掃除を続けました。

 どうして先生は何もしてくれないの?どうして私だけがやらないといけないの?と感じていたことを鮮明に覚えています。

他の子よりも少しだけ体格が良いだけなのに…

こちらが最後のエピソードです。

 私が6年生の時、同じクラスに癇癪の激しいCくんがいました。Cくんの癇癪が始まってしまうと、女性である担任の先生では止めることができません。すると先生は「ちっちくん、○○くん、□□くん、お願い!」と言うのです。

 体格の良い3、4人でCくんを羽交い締めにし、なんとか動きを封じます。当時の私たちに「クールダウンさせる」という発想はありません。とにかく力ずくで彼の動きを止め、物を投げないようにする、誰かを殴らないようにする、という感じでした。

 当然ながら、この役割も私は嫌でした。他の子よりも少しだけ体格が良いというだけで、なぜ癇癪のクラスメートを止めにかからないといけないのか。なんだかおかしい、といつも感じていました。

真の意味での「インクルーシブ教育」とは

こうしたお世話係問題の根底にあるのは、「困っている人、弱い人を助けましょう」という道徳の考え方だと思います。それ自体は間違っていません。

 しかし、結果はどうでしょう。実際にお世話係を任される子は、自身の生活を乱され、自由な時間を奪われます。そして、自身の関わりたい子との交流の機会も奪われるのです。

 一部の子どもが困っていたり、問題行動があったりしても、周囲の教師や生徒はお世話係を呼んで、あとの対応を任せるだけ。なんとなく授業や行事は成立しますが、果たしてこれは「インクルーシブ教育」と呼べるのでしょうか。

 インクルーシブ教育とは、障害者と健常者が同じ教室で学習することを指します。ただし、障害者と健常者が同じ教室にいるだけでは不十分です。まずは、差別について教師がしっかりと教える。そして、生徒それぞれの得意なこと・不得意なことをよく知る。

 そのうえで「こういうところもあるけれど、それもいいよね」と皆で共有できたなら、障害者を特別扱い・お客様扱いしない、いわゆる「共生」に一歩近づくのではないかと私は考えます。

大人になって思う“当たり前”

子ども時代の思い出を思い返してみて、どうして「お世話係をしたこと」が負担と感じたのか考えてみると、「嫌な時に嫌と言えなかったこと」が理由だと感じます。「できない事に手伝いがいる子がいる」のは、子どもの自分にとっても当たり前の話だったので、手伝うこと自体には抵抗はありませんでした。

 しかし「毎回、必ず自分が手伝う」となると、嫌に感じる日は正直ありました。この二つの気持ちが、同時には処理できず、嫌に感じる自分を責めていました。今なら分かりますが、手伝いするのが当たり前の自分も、時々手伝いをするのが嫌になる自分も両立するし、そう感じて当たり前だということです。

 大人になって思うのは、お互いを尊重した人間関係とは『お互いに嫌な時に、嫌だと気兼ねなく言えること』です。これが成り立っていない関係は、どちらかの我慢の上で成立することになるからです。

 しかし、障害が絡むと一気に難しくなります。障害がある子の行動や態度を嫌に感じても、それを態度に出すということが「差別になるのではないか?」と気になるからです。体調が悪い時、何となく対応したくない時、などなど、子どもですから「お世話係」側の子どもにも、「嫌と感じる日があること」は当たり前なのにです。

 ですので、もし読者の皆さまのお子さんが障害のある子と関わっている時、必ず確認してほしいのが、

 「『相手の子が嫌』と言える環境を大人が整えているか?」
 「嫌な日があって当たり前であることをきちんと伝えているか?」
 の2つです。

 逆説的ですが、これが自分も相手も好きでいられる人間関係の基本だと思います。

まとめ

「お世話係」という仕組みは、どうやら今でもあるようです。しっかりした子どもは、先生を助けようという正義感や頑張り屋さんの気持ちで、つい頼まれると引き受けてしまうのでしょう。

 やはり、特定の子だけに負担がかかる仕組みは平等ではないと感じます。皆がそれぞれの特性を知り、お互いを尊重できるような教育環境が必要ではないでしょうか。

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